土曜日, 2月 17, 2007

福田和也(著)『大丈夫な日本』(文春新書)について

 本日公共図書館で文芸評論家である福田和也氏の『大丈夫な日本』(文春新書)を借用した。著者に興味があって、あるいは書名に興味があって借りたわけではない。あるブログ・サイトに、「ラッセルとケインズが同性愛関係にあったと、『大丈夫な日本』に書いてあり、ビックリした。・・・。」といった内容の書き込みがあり、(ケインズは同性愛で有名ではあるが、ラッセルにはそのような傾向はなく)何を根拠に福田氏はそのように書いておられるのか、確かめたくて、借用したしだいである。福田氏は次のように書いている。

 「・・・。ロレンス自身は、第一次世界大戦のときには2つの大きなショックを受けています。彼は反戦的だたし、友人であった哲学者バートランド・ラッセル、経済学者ケインズもそうでしたが、このふたりは同性愛関係でした。戦争中、ラッセルらの招きに応じて、ケンブリッジ大学に滞在したときのことです。ある晩、ラッセル邸に宿泊したロレンスは、寝室から降りてきたケインズのパジャマ姿を目撃する。ロレンスは、ケインズの姿に、かつて見たことのないような醜悪さを見出します。それは単純に、同性愛の匂いに反応したのではない。むしろ20世紀の天才経済学者、おそらく当時のイギリスの、最高の知性人のなかに、底知れぬ醜悪なものを見てしまった。その知性の核心から匂ってくる腐臭をまざまざと嗅いでしまったのではないでしょうか。・・・。いずれにせよ、ケインズやラッセルのような、一国の経済政策を左右し、あるいは世界平和を唱えて活躍するような知識人たちこそが、人間から生気を奪い、技術と金銭のもとで生命を衰退させ、人間性を消毒し、自由や平和の名のもとに大量破壊を誘発する、真の生命と無縁な怪物ではないのか、とロレンスは疑うようになるのです。・・・。要するに、文明の進歩の先には人間の居場所はどこにもない、というような感覚をロレンスは持ったわけです。・・・。」(同書pp.125-127)

 福田氏は、残念ながら明確な根拠を示さずに、断定している。
 想像では、D.H.ロレンスの書簡集かあるいは、ロレンスの小説に出てくるラッセルをモデルにした小説からそのように判断したのだろうと思われる。ロレンスの書簡集には、ロレンスがラッセルに出した、(確か23通の)手紙は収録されているが、ラッセルがロレンスに出した手紙は(ロレンスが捨ててしまったらしく)現存していないため収録されていない。自分が気に入らないと耳を貸さないロレンスらしさのあらわれか?

 福田氏の基本的な姿勢は、近代の超克、理性に歯止めをかけること、歴史の重視(歴史に学ぶ)、江戸時代のような持続可能な社会に対する高い評価、(持続しているということで)皇室や天皇制の意義の強調などがある。
 福田氏は、「近代」、「理性」といった言葉を良い意味では使っていない。(近代は「超克すべきもの、理性は暴走させてはいけないもの、といったとらえ方)

[疑問に思われる記述]
 納得のいく記述(環境を破壊せず、・・・成熟した社会へと再編成していく・・・)も少なくないが、次のような記述を読むと、納得できると思った部分も言葉だけのことかも知れない(真意は別にある)のではないかとも危惧される。

〇「原油と原子力がなければIT化はこれ以上進展しない。」
 → これは決め付け。当面はそうであったとしても長い目で見るとそうではないだろう。 
〇「なるほど国際化により、またインターネットなどの情報ツールにより、世界的コミュニケーションが密になったいま、実際に何が起こっているかというと、間口が広く寛容だったはずの市民社会が、敵の摘発と排除を主眼とした場所にかわってしまった。」
 → 過去の社会が寛容だったわけではなく、人や物資の行き来が増大し、接触がまし、衝突することも増えただけではないか。
〇安全保障は、実のところ、日本人の腹一つなのです。核武装でも、何でも、選択肢はたくさんあります。
★(一番反発を覚える記述) われわれは、飢餓も、病気も貧困も追放することはできない。それは、傲慢な思い上がりであり、実際は近代の全史を通じて、世界は悲惨であったにもかかわらず、近代人は、「無限」の未来への信仰によって、こうした災厄が解決可能であり、また明日における救済のための犠牲であると、ごまかしてきたのです。(p.100-101)
〇陳腐な表現が目立つ
 ・現在の困難を、一言でいえば、「近代の終わりをめぐる苦しみ」、という・・・//
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